♪♪ 琉球の歴史感じるロマン街道を歩いてきました ♪♪
今回歩いてきたコース
伊祖グスク … 浦添公園 … 当山の石畳 …
浦添グスク … ようどれ … 玉城朝薫の墓
伊祖グスクは、
英祖王の父祖歴代の居城だと伝えられている。英祖王の父は、沖縄最初の王統だといわれる天孫氏の流れをくむ人物で、伊祖グスクを居城としていた。子どもがいなかったのだが、ある晩、日輪が飛んで来て妻のふところに入る夢を見た。そして生まれて来た子どもが英祖王だと言われています。
英祖王が幼少の頃はこの伊祖グスクで生活してたと言われています。
眼下には港牧港をはじめ宜野湾、北谷の海岸、読谷の残波岬、
南西には慶良間諸島を望む雄大な景観を呈していました。
浦添公園は
伊祖公園から1,5キロぐらい歩いたでしょうか、330号線を横切った所から牧港川を挟んで遊歩道が完備されてました。迷路のようにどこまでも続くこの道はメタボ対策を兼ねて歩くには最高ですね。
川の上流まで行くと道はつきあたり歴史を漂わせる橋を挟んで石畳の道が…
当山石畳道は、
牧港川をはさんだ谷間に、幅約4.5メートル、長さ約200メートルにわたって続く道。それは国王が普天間宮に参詣した道でもあり、大勢の人や馬が踏みしめてきたであろう長い年月を知ることができましたね。
又、馬もころぶ難所だったということから、この道が地元で「馬転がし(ウマドゥゲーラシ)」などとよばれてい
たとも書いてありましたね。
その後 急なこう配の道を登ると見晴らしの良い高台に出ます。
ここからは、浦添グスクの城跡になります。
浦添グスクは、
舜天が王統を開いた際に居城にしたとされ、舜天・英祖・察度の3代にわたり栄え、佐敷按司・巴志が武寧王を滅ぼすまで中山の中心だったといわれています。
王都が首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、薩摩藩の侵攻までは浦添家の居館となりました。
沖縄戦では、日米両軍の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊されたと言われています。
ほとんどグスクらしい面影はなかったですね
グスクを下りてくると右側に浦添ようどれと呼ばれる琉球王国の陵墓があります。
浦添ようどれは、
向かって右側が「英祖」王の陵墓、左側が「尚寧」王の陵墓と言われています。
又、この2つの陵をまとめて「ようどれ」と呼んでいるそうです。「ようどれ」とは琉球語で「夕凪」の事だそうですが、他に「極楽」という意味も有るそうです。
ここから下り坂になっていますがどこで道を間違ったのか、小学校と幼稚園の敷地内を横切り…
玉城朝薫の墓を目指します。
玉城朝薫は、
おさないころから音楽の才能をあらわし、組踊(くみおどり)という、沖縄の古い音楽とおどりを取り入れた劇を考え出した人物。
13歳になった朝薫は、首里城につとめ、まじめな働きぶりがみとめられ、21さいの時、越来王子のおともとして、朝薫は薩摩にわたった。ここで朝薫は、能(のう)の好きな藩主(はんしゅ)・島津吉貴を前に、『軒端の梅』をおどってみせ、すばらしい才能を見せた。
ここから伊祖公園の駐車場まで浦添公園内の別道を迷いに迷って何とかたどり着き万歩計の歩数は
今日は かなり充実してましたね。